沿革
少年野球連盟の沿革と時代の背景を時系列にてご案内いたします
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年
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連盟の出来事
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時代の背景
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1971年(S46)
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多摩市 誕生
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1973年(S48)
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多摩市少年野球連盟誕生 | 第一次オイルショック |
1974年(S49)
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春季、夏季、秋季の各大会を高学年、低学年の学童対象に開催される。 | 新百合丘〜永山 京王よみうりランド〜多摩センター開通 |
1979年(S54)
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対外試合公式戦参加 | 第二次オイルショック |
1980年(S55)
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この年より「中学部」の大会参加が始まる。 | 市内17校がここまでに開校される。 81年は多摩市政10周年 |
1985年(S60)
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この年を最後に夏季大会がなくなり「春季、秋季」の二大会となる。 | つくば科学万国博覧会開催 |
1988年(S63)
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会長杯が追加となる。 | 青函トンネル開通、 多摩センター南大沢開通 |
1991年(H3)
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ハワイ選抜少年野球チーム来日 親善試合 新人戦が追加される。 |
多摩市政20周年 |
1992年(H4)
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多摩市少年野球連盟、ハワイ国際交流親善遠征 | 学校の週5日制開始 |
1993年(H5)
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夏季中学部を対象とするスポーツ少年団本部長杯を開会される。 | 多摩テレビ開局 |
2003年(H15)
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中沢接骨院杯を学童底辺拡大の主旨で中沢院長の後援で開会される。 | 東海道新幹線の東京駅〜新横浜駅間に品川駅が開業。 |
2007年(H19)
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上記中沢接骨院杯が高学年、中学部も対象となる大会に拡大され、低学年は翌年の学童新人戦の参加決定大会と位置づけられる。 | 参議院選挙で自民党敗退、与党であつた民主党が参議院での過半数を獲得する。 |
多摩市少年野球連盟として多摩市スポーツ少年団に団体登録され、連盟より同団体へ5名の役員を派遣する。 | ||
多摩選抜チームが発足され、学童においては府中選抜大会、西東京オープンの派遣大会へ25名をセレクションし決定派遣する。 中学部は会長杯神前大会に参加する。 尚、朝日新聞関連企業協賛により、選抜ユニフォームを製作した。 |
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夏季、親善大会の名称を「第1回会長杯親善野球大会」に改名された。 また、多摩市学童のために「第1回 桜美林杯争奪東西対抗戦」が開会された。 |
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2008年(H20)
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長きに渡りご尽力頂いた杉原会長が勇退。 後任として新牧理事長が新会長に着任。 高橋副理事長が理事長に就任する。 杉原前会長は連盟初の名誉職として「常任参与」として今後も連盟の指導役として就任される。 |
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2010年(H22)
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任期満了の改選に伴い、高橋理事長が勇退。 後任に小泉事務局長が理事長に就任。 新事務局長に坂本氏が承認され、新牧会長以下3名が三役として承認された。 多摩市体育協会に加盟(4月) 連盟内別組織として「審判部発足」 |
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2011年(H23)
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3.11による「安全性と自粛世論」により、連盟としての活動を見合わせ、他市部の状況、行政との確認を踏まえて、5月以降に活動を再開した。 | 3月11日 東北大震災により多大な被害と犠牲が生じる。 日本全体が追悼の意による自粛・福島原発被害による電力不足など社会的に戦後最も厳しい試練が与えられる。 |
2012年(H24)
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任期満了の改選に伴い、会長、理事長は留任。 坂本事務局長が副理事長に就任(兼務審判部長、渉外部長) 新事務局長として多摩ボーイズ金子氏が就任。 また、この年から常任役員の業務を「会計・企画広報」を除き「事務局次長」ポストに充て、「大会(中学部・学童)担当・報奨施設管理担当」など実務レベルでの業務分掌と役職に変更された。 |
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1993年までの記録は連盟30周年記念誌より引用し要所のみ掲載いたしました。
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